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香港の鉄道・地下鉄・LRT

                  佐藤信之

 

記事:『鉄道ジャーナル』平成119月号掲載

注:入稿後の修正については反映しておりません。また、図・表も省略しています。  

 本稿では、香港の鉄道・軌道整備の現状について概観する。香港は、奇跡的とまでいわれた急速な経済成長を経験した東南アジアの中でも、ひときわ抜きん出た経済力を蓄えてきている。1997年にはそれまでのイギリスの植民地から中華人民共和国に施政権が返還されたが、とりあえずは50年間の経済体制の現状維持が約束されており、一時株式市場の混乱が見られたものの、とりあえずは香港の経済的繁栄には返還の影響はなさそうである。 

香港の交通計画の起源 

 1960年代、香港には、公共交通として本土と結ぶ九広鉄路があったものの、非電化の単線鉄道で、地域交通機関としては十分機能していなかった。市街地の交通手段としては、香港島の路面電車のほかはもっぱら大小の路線バスが主役であった。

 香港は、アジアNIEsの中心国として飛躍な経済成長を経験。本土からの人口の流入もあって、都市交通問題が重要な課題と認識されるようになった。そこで、1964年イギリスのTransport and Road Research Laboratoryと当時の香港政庁の工務局が共同で、交通状況調査組を設立。これは1967年に恒久的機関に改編されて、交通及運輸調査組に改称された。

 そして、1964年から66年の間、包括的な交通実態調査を実施。これが公共交通計画のMTSと道路計画のLTRSの基礎となった。

 MTS「集体(総合)運輸研究」は、1986年を目標年とする公共交通整備の研究で、1965年に作業を開始して、1967年に答申が出た。ここで、4路線の地下鉄計画が示された。すなわち、 観塘線Kwun Tong Line、※湾線Tsuen Wan Line, 港島線Island Line、東九龍線East Kowloon Lineである。

 一方、LTRS「長期道路研究」は、同じく1986年を目標年とする道路網の開発に関する研究で、1966年にはじめられて1968年に答申が提出された。現在整備がすすめられている18号幹線道路の整備が示された。

 いずれの計画も、あらかじめ決定された土地利用計画のもとで発生する交通需要を、公共交通だけあるいは道路網だけで満たすことを想定した計画であった。公共交通、道路網の組み合わせについては検討されなかった。 

地下鉄の建設

 MTSで示された地下鉄整備を進めるため、1973年、香港政庁内にMass Transit Railway Provisional Authorityを設立して地下鉄建設の準備に入った。さらに19759月には特別法を制定して地下鉄を建設・運営する株式会社形態による特殊法人地下鉄路公司Mass Transit Railway Corporation (MTRC)が組織された。香港政庁を唯一の出資者とする公的に設立された株式会社であるが、「公的に支持された事業体とはならないという哲学」のもとに営利企業として考えられているという。

 197511月に地下鉄工事に着手して、1979101日観塘線観塘Kwan Tong−石※尾Shek Kip Mei8kmを香港初の地下鉄路線として開業した。つづいて同年1231日に石※尾〜尖沙※Tsim Sha Tsui間を路線延長して九龍の都心部に乗り入れた。さらに1980年2月12日には海底トンネルをくぐって香港島の中環Centralまで路線を延長した。

 一方、1982年5月10日※湾線の※湾〜茘景Lai King間を開業。同17日には太子Prince Edwardまで延長して観塘線に接続した。この開業にあたって、観塘−中環間を運行していた観塘線の列車を油麻地Yau Ma Tei止まりにして、代わりに※湾からの列車を中環に直通させるよう、運行系統が変更された。なお、油麻地−太子間はそれぞれ別線を運行し、太子と※角Mong Kokでは同一ホームでの乗り換えが可能な構造で建設されていた。

 香港島側の路線については、198310月港島線の建設工事に着手。1985531日に柴湾Chai Wan−金鐘Admiralty間を開業、翌年5月23日に上環Sheng Wanまで延長した。

 その後、198985日観塘から道路併設の東海底トンネルEaster Harbour Crossing(EHC)を抜けて香港島の※魚涌Quarry Bayまでを開通させた。これで、東九龍線を除く全3路線43.2km(うち7.6kmは高架)の路線網を完成することになった。

 MTRCの新線建設に対しては政府は出資金を支出し、また政府保証融資が提供されて、政府による助成策が講じられている。しかし、基本的には独立採算が求められることから、新線建設に対する補助金などの制度はなく、代わって資産活用による建設資金の捻出が広範囲に実施されている。いわゆる開発利益の還元である。

 MTRCが政庁政府の同意を得て駅や車庫周辺での商業ビルやマンション建設など地域開発を計画。MTRCの計画にしたがって民間ディベロッパが自身で資金調達をして建設。ディベロッパは開発利益の一部をMRTCに提供するというもの。

 のちには、Maritime Squareのように、MTRC自身が大規模なショッピングセンターやオフィスビルを建設し、完成後もこれを運営して賃貸料を徴収するケースも見られるようになった。 

九広鉄路の再生プロジェクト

 九広鉄路は、1910年に開業して以来永いあいだ非電化の単線鉄道のままで過ごし、一時は本土との直通旅客列車の運転も中止して、本土からの貨物列車のほかは、ほそぼそとわずかなローカル列車を運行していた。

 1980年代、この鉄道を香港領域内の地域交通機関として再生させるプロジェクトが実行された。1975年新しい九龍のターミナルを紅※Hung Homに開業し、1979年には広州との間に12往復の都市間列車の運転を再開した。さらに、1982年5月には紅※−沙田Sha Tin間を交流25KVで電化して近郊電車の運行を開始。翌年国境の羅湖Lo Wuまで電化区間を延長した。

 このような状況の中で、経営組織の改編も実施された。かつては香港政庁の政府の組織であったが、198212月九広鉄路公司条例が制定されて、企業組織の九広鉄路公司KCRCに改編された。

 現在、12両編成の近郊電車を最大3分間隔で運行しており、電車は、3両編成85本、6両編成16本を所有している。1996年から99年にかけて近代化工事が進められ、保安設備が新しくATPに改修されて、近郊電車の運転間隔の短縮が可能となった。最大1時間24本までの運転が可能。

 また、本土との直通列車は、広東省の各都市のほか1997年5月からは上海や北京との間を結ぶものも登場している。これまでは、本土からの乗り入れが中心であったが、1998年8月広深鉄道の電化完成に合わせて、新たにKCRは2階建てのktt長距離用客車を紅※−広州東間の都市間列車に投入、はじめて香港側からの乗り入れを開始している。さらに、紅※のターミナルの改修が1998年に完成した。 

屯門ニュータウンのLRT

 九広鉄路公司KCRはまた軽便鉄路部を置き、九龍半島西部の屯門Tuen MunニュータウンでLRTを経営している。全線複線の専用軌道で、エアコン完備の車両を使用した近代的軌道系中量輸送機関である。

 軌間1435mm750Vの架空電車線方式。1両ないし2両で運行している。

 1988年9月屯門地区を中心に1期区間として23.35kmを開業。その後同地区内に3区間4.9kmの路線を延長した。さらに、1993年元朗Yuen Long〜天水圍Tin Shui Wai2.7km延長。1995年には天水圍地区で0.8kmの路線を延長して、現在31.75kmの路線網を営業している。

 この路線整備の財源は、すべてKCRの内部資金が充当されたが、資金調達のひとつとして不動産開発が進められた。その最初のケースとなったのが、屯門※頭Tuen Mun Pierビルの建設で、1985年に工事をはじめて1988年に完成した。その後多くのビルを建設してきているが、その利益を財源にして設備投資やサービス改善が進められている。

香港島の路面電車

 香港島には、いまや観光名所となった2階建ての旧式然としたトラムがある。島北部に集中する繁華街を中心に、軌道延長28.3km、路線長16.3kmの併用軌道が敷設され、1日28万人余りの旅客を輸送している。

 英国系ワーフWarf社の傘下企業香港電車有限公司が1904年に開業させた。ワーフ社は、1886年香港に本拠を置く英国系商社ジャーディン・マセソン社が、倉庫、港湾設備、運輸、不動産事業を営業する会社として設立した会社である。このワーフ社は、1980年、ジャーディン社の経営不振から香港財閥パオ・グループが買収して、現在同グループの中核企業として活動している。

 香港電車有限公司は、全車2階建ての電車163両を所有しており、そのうち28号と128号はオープンカー様式の観光電車に改装、120号も19911947年式のクラシックな車体が新造された。その他の161両は1987年〜91年の間に車体が新造されて近代化された。また、1972年に1等・2等の等級分けが廃止されている。

鉄道整備計画

 1970年代初め、経済発展、住宅開発、新界での人口成長は、見通しを大きく上回った。道路建設は、整備の容易な区間の工事ばかりが進行し、残った道路は高コスト区間が中心であった。その上、新しい道路は、自動車の増加ですぐに満杯になった。そこで、領土内の公共交通と道路網を包括した、総合的な交通計画の必要性が認識されるようになった。

 1973年政府は「第一次整体(総合)運輸研究」(CTS)、1991年を目標年とする交通投資と政策の策定を、交通及運輸調査組に委嘱した。これは、さまざまな土地利用計画を想定してそれに対して最適の交通システムを選定するものである。1976年に答申が提出され、1979年「運輸政策白皮書(白書)」として公刊された。

 1970年代には、まず土地利用計画の概要が策定され、それに対して交通計画が決められた。そのため、交通のインフラ整備は、都市・住宅開発をあと追いすることになった。しかし、1980年代初め、資源の制約から、交通システムの容量が無制限に拡充できるわけではないことが認識された。そして交通需要は、土地利用と交通整備の相互作用の結果であるので、両者の調整が必要であると考えられた。1982年、2001年までの領土内の開発戦略を決定するに当たって、政府は、財政的にも経済的にもValue for Moneyを実現する、土地利用と交通整備を統合した最適な計画アプローチを決定した。これは、1984年「全港(香港)発展策略」(TDS)として発表された。

 1986年、政府は2001年を目標年とする「第二次整体(総合)運輸研究」(CTS-2)の策定を委嘱した。需要あと追い型の計画から資源配分に配慮した計画への変更に特徴がある。すなわち、予算制約を意識して効率的な交通インフラ整備を実現するため、費用便益計算で優先順位を設定すること。また提案された交通ネットワークの容量の範囲に交通需要を削減することを検討すべきことが掲げられた。1989年に完成して、1990年「第二本運輸政策白皮書(白書)」として刊行された。

 なお、このCTS-2は、1989年「港(香港)口及機場(空港)発展策略研究」(PADS)の完成で空港移転と港湾の整備計画が確定したことで、1991年と1993年に修正が加えられた。またあわせて目標年を2011年に変更した。

 そして、この鉄道整備の実施計画して、1993年5月Railway Development Studyが公表された。九龍の埋立地から北東部馬鞍山Ma On Shanに至る新線。MTR観塘線を藍田で分岐して将軍※Tseung Kwan Oまでの路線延長。ランタオ島の埋立地に建設される新空港への新線計画。香港と中国本土とを結ぶ貨物輸送力を補完する九広西鉄道の建設などが盛り込まれた。

 さらに、1997年、政府は2016年を目標年とする「第三次整体(総合)運輸研究」(CTS-3)の策定を委嘱した。環境問題と本土間交通といった新しい視点が登場したのが特徴である。1999年に完成する予定である。

空港新線の建設

 ランタオ島の埋立地に建設された新空港への新線計画である。地下鉄路公司(MTRC)が建設・運営する。空港線(機場線)Air Port Expressと東涌線Tung Chung Lineの2線で、ほとんどの線路を共有するが駅施設は完全に分離されている。また都心と郊外に2区間複々線区間が設けられ、郊外部は列車の追い抜きに利用され、都心部については実質的に空港アクセスとローカル列車とを別線に振り分ける役割を持っている。

 199412月工事に着手し、1998622日にまず東涌線を開業。7月6日には新空港の開港に併せて空港線(機場快線)も運行を開始した。

 空港線の建設費用の内、68%が政府出資,32%が政府保証の無い国際民間融資により調達されたが、これは香港の中国復帰を間近に控えることから、中国側の要請を受け入れて政府出資を増やして借り入れ規模を縮小するという措置がとられた。借入金の返済には、沿線5個所、併せて62ヘクタールにわたる地域開発の利益が充当されることになっており、返済期間の短縮と支払金利の削減が可能になるという。

 なお、空港新線の建設に当たって政府が237億ホンコン・ドルを新たに出資したことで、MTRCの資本金は321.9億ホンコン・ドルに大幅に増額された。 

地下鉄路公司MTRCの計画路線

将軍※Tseung Kwan O 延長路線

 現在MTRの観塘線は油麻地から海底トンネルを通って香港島の※魚涌まで運行しているが、この路線の途中藍田Lan Tinで分岐して将軍※方面へ向けた新線の建設が計画された。将軍※には最終的に50万人の人口規模となるニュータウンが造成中で、新線経営には34万人の人口が必要と見積もられているが、とりあえず25万人の人口規模に達するとされる2001年にあわせて新線を開業させることになった。

 1995年に政府はMTRCに対して将軍※までの路線のDCFO(デザイン・建設・資金調達・運営)の提案を要求。会社は、同年5月に実行可能性調査を実施して、1996年4月にその結果を香港政庁に報告した。

 199612月香港政庁から設計段階に入ることに対する認可を得たことで、コンサルタント会社へ詳細設計を発注。1998年3月までにすべての詳細設計を終了した。そして、同年11月に最初の建設契約を締結した。

 当初は、観塘線の単純な支線建設として始まったプロジェクトであるが、1997年9月からはさらに※魚涌Quarry Bayの混雑緩和工事が併せて実施されることになった。これにより、現在の観塘線は運転経路を将軍※新線の調景峯Tiu Keng Lengまでに変更して、藍田から東海底トンネルに通じるルートを廃止する。一方、香港島の既存の港島線を北角North Pointで分断して、西側の上環Sheung Wan−北角間は、天后Tin Hauを出たところで既設線から分かれて、東海底トンネルにつながる北角−※魚涌Quarry Bay間の新線に乗り入れることになる。さらに九龍側では将軍※新線に直通する。

 北角−※魚涌間は2000年の完成を予定している。

 将軍※新線は、藍田を起点に油塘Yau Tong −調景峯Tiu Keng Leng−将軍※間の路線と、将軍※から北側の坑口Hang Hauから宝琳Po Lamまでの路線と、南の将軍※南Tseung Kwan O Southまでの二股の路線が建設される。このうち、将軍※−将軍※南間以外を2002年までに開業させる計画である。

北港島線North Island Line

 北港島線は、空港新線の東涌線Tung Chung Lineの延長路線として、現在のターミナルであり港島線中環との接続駅である香港Hong Kongから、添馬Tamar−会展Exhibition−炮台山Fortress Hillへと東進し、炮台山駅で港島線の東区間、北角North Point−柴湾Chai Wanに直通運転する。2006年開業予定。

東九龍線East Kowloon Line

 東九龍線は、1967年香港の公共交通に関する最初の計画であるMTSの段階ですでに想定されていた。当初は、九龍北東部のニュータウン馬鞍山Ma On ShanからKCRの東鉄路の大圍Tai Waiを経て、さらに鑚石山Diamond Hillで観塘線に接続、都心部の九広鉄道のターミナル紅※を経て海底トンネルで香港島の中環に至る路線計画であった。このうち、馬鞍山−大圍間と紅※−西九龍West Kowloon間がKCRの新線に、また西九龍−中環間がMTRの空港新線に変更された。このため、九龍の都心から香港島へは、紅※から新設の海底トンネルを通って、会展Exhibition−金鐘Admiralty−中環西Central Westとたどる経路となった。2006年開業予定    

九広鉄路公司KCRCの計画路線

九広西鉄路

 香港と中国本土とを結ぶ九広鉄路の貨物輸送力を補完する目的で、九広西鉄路が計画された。九広鉄路公司(KCRC)が建設・運営に当たる。ただし、本土との貨物輸送については、当面は現在の東鉄路で賄えることから、とりあえず九龍半島の西部に開発された屯門Tuen Munニュータウンへのアクセスを目的として建設が進められることになった。屯門ニュータウンは、20世紀末には100万人規模となるという計画で造成が始められた巨大なニュータウンである。しかし、都心への交通手段はフェリーとバスのみで、大量輸送機関の整備が待たれていた。

 この西鉄路は19961月に政府により認可され、1998年第4四半期に1期線の工事に着手した。欽州街Yen Chow Street−元朗Yuen Long2002年末、屯門まで20039月の開業を予定している。全線 30.5km(地下路線13.7km,地平路線8km,高架路線8.8km)。都心側のターミナルである欽州街は空港線との接続駅であり、乗り換えにより香港島までのルートが確保されるが、最終的に西九龍旅客ターミナルまでの延長が予定されている。

 なお、当初12両編成で最小3分間隔運転をする計画であったが、運転間隔を2分間隔に短縮して編成長を9両編成に短縮することで施設の工事規模を縮小することになった。また、工事費は全額KCRが負担する予定であったが、1998年2月香港特別行政区は、この1期区間工事の財源の一部に充当するため、145億ホンコン・ドルの出資を承認した。公社が設立された際に引き継がれた事業資産の評価額21.2億ホンコン・ドルが永く資本金額となっていたが、大規模投資が続くことになるため1997年授権資本を340億ホンコン・ドルに引き上げた。

 さらに西鉄路は2期工事として、錦田Kam Tinで1期線と別れて香港北端の落馬洲Lok Ma Chouに至る路線と、九龍港のコンテナターミナルへの支線を建設して、現在中国本土と香港とを結ぶ唯一の鉄路である東鉄路の代替貨物ルートを構成することになる。

九広東鉄路

 1998年6月、大圍Tai Waiと利安Lee Onを結ぶ馬鞍山Ma On Sha新線と東鉄路を紅※から尖沙※Tsim Sha Tsuiに延長する計画が運輸局に提出された。

 馬鞍山線は、もともと地下鉄東九龍線の一部として計画された路線であるが、結局九広鉄路の東鉄路に直通することになった。

 尖沙※延長線は、South Loopと呼ばれ、最終的には 尖沙※から西九龍まで伸びて、建設中の西鉄路に接続することになる。

 尖沙※延長線は2003年、馬鞍山新線は2004年の完成を目指して、1998年終わりまでに環境影響調査と用地取得計画を完了させ、1999年終わりまでに詳細設計を終了する予定である。2000年には工事に着手することになる。

 また、特別行政区政府は、現在、1999年4月までに羅湖の混雑緩和を目的とする上水Sheung Shui〜落馬洲Lok Ma Chauの迂回路線の建設計画の提出を求めている。

 KCRは、これら東鉄路3路線の計画に対して、西鉄路と同程度の政府による財政支援を求めているという。

軽便鉄路

 政府は、天水圍Tin Shui Waiの保留地区の開発を決定したが、これに併せてKCRLRT路線を延長する。第1期路線の総工事費は車両費を含めて7.2億ホンコン・ドルで、全額KCRの内部資金を充てることになる。2003年までに営業をはじめる計画である。 

*本稿をまとめるにあたって、亜細亜大学アジア研究所の研究プロジェクトで収集した資料を使用した。


モノレールと新交通システム グランプリ出版 2310円込

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