RAILLINKs.jp

大阪府出資第三セクター鉄道

北大阪急行電鉄

佐藤信之

 

記事:『鉄道ジャーナル』平成115月号掲載

注:入稿後の修正については反映しておりません。また、図・表も省略しています。 

 昭和40年代初頭,大阪府は,大阪市の北方郊外,千里丘陵の地に計画人口15万人のニュータウンを計画した。そして,このニュータウンの足として,北大阪急行電鉄が設立されることになる。 

原計画

 北大阪急行電鉄路線の原計画は,1963年都市交通審議会7号答申にさかのぼる。この答申に,1975年までに整備すべき路線として営業中の市営1号線御堂筋線を梅田から新大阪,榎阪,千里山まで延長する路線が盛り込まれた。ただし,計画中の千里ニュータウンの交通需要は,京阪神急行が整備する千里山〜上新田(千里山)〜桜井間(現千里線)の新線で充足できるので,将来ニュータウンの開発が進展した段階で,建設を考慮する必要があるという位置づけであった。

 一方大阪市は,1952年地方公営企業法の制定で義務づけられた基本計画の中で市営地下鉄の整備について規定していた。この計画は時代の要請に合わなくなったとして1958年に一部修正され,76kmの路線を1975年までに整備するという内容であったが,都心部の混雑に対する手当てが不十分なもので,これもすでに色褪せたものになっていた。

 大阪市は,都市交通審議会の答申を受けて,1963年基本計画を改定した。旧計画の完成目標を5年繰り上げて1970年とするとともに,3号線(四ツ橋線)や6号線(堺筋線)など新規計画路線として39km弱の路線が追加された。とくに都市圏の拡大に対応して,大阪市から隣接都市にはみ出す路線が4路線含まれたのが特徴である。そして,この新規路線の1つに榎阪〜千里山(上新田)間5.2kmの現在の北大阪急行電鉄の路線が加わることになった。

 また,基本計画の改定にあたって,計画路線の内の40km余りの路線について,昭和42(1967)年度までに整備を行うという路線緊急整備5か年計画が策定された。これには1号線(御堂筋線)梅田〜新大阪〜榎阪間6.42kmが含まれていたが,これは1964年に予定される東海道新幹線の開業に合わせるため,建設が急がれたのであろう。1964年9月梅田〜新大阪間を開業した。

 その後,大阪市内の道路混雑が深刻化するとともに,大阪での万国博覧会の開催が決定したことから,都心部の地下鉄網の一層の整備を目指すことにして,1966年緊急整備5か年計画が改定された。完成目標年度を1969年に延期した上で,計画完了時の営業距離を59.6kmから66.9kmに拡充した。 

北大阪急行電鉄の設立 

 1970年に千里丘陵を会場に万国博覧会が開催されたが,この誘致のイニシアチブを取ったのは大阪市であった。しかし,万博関連事業として総額2,200億円を投入することになるが,1号線(御堂筋線)の千里延長には莫大な建設費を必要とすることから,大阪市と大阪府の間で意見の対立があったという。具体的な内容は不明であるが,大阪市は,万博終了後は千里ニュータウンの通勤通学路線となるため,ニュータウンの開発者である大阪府が建設すべであると主張したのであろう。むしろ大阪市は,堺筋線を整備して京阪神急行電鉄と直通運転を実施して,都心と千里の会場の間のアクセスを担当させることを考えていた。大阪市は1966年8月に正式に御堂筋線の千里山までの延長を断ることになった。そこで,関係者間で協議を進めた結果,1967年6月28日運輸省、通産省、大阪府、大阪市、阪急電鉄の5者間で協定が成立し、大阪市は特許区間新大阪一江坂間を建設、江坂〜会場間は阪急電鉄を経営主体とする新会社が建設運営に当ることとなった。そして19671211日北大阪急行電鉄が設立され,江坂駅を接続点として御堂筋線と相互直通運転を行うこととなる。ただし,この直通運転は,それまでの府と市と対立がしこりとなって万国博閉幕までの暫定的な相互乗人れとなった。

 1970年2月御堂筋線新大阪〜江坂間と北大阪急行電鉄江坂〜万国博中央口間が開業し,我孫子〜万国博中央口間が1本に繋がった。市交通局は万国博中央口まで,北大阪急行は天王寺まで相互直通運転を開始することになる。終日8両編成で最短1号線内2分15秒間隔,北大阪急行線内2分20秒間隔である。

 万国博覧会は,当初観客数を3,000万人と予想したが,開催直前に5,000万人に修正。この数字も会期途中の8月19日に突破するという好調ぶりであった。それに対して市交1号線と北大阪急行は平日,土曜,休日の3種の特別ダイヤを用意して対応。総入場者数の31%にあたる3,986万人余りが利用することになる。また,市は最大運用本数が27列車必要であるのに対して配置が28編成しかないため,26運用にとどめて不足分を北大阪急行の車両で補うことになった。これは北大阪急行から車キロを借りる形で行われ,万博閉幕後に大阪市の車両が余分に北大阪急行に乗りいれることで精算された。

 また,市交通局の1号線は,万博開催をまじかに控えた1968年,約37億円を掛けて車両の取り替えとATC設置による輸送力の増強投資に着手した。当時は8両編成の列車が最小2分15秒の運転間隔で運行しており,すでに限界であった。そこで,1両平均120人乗りの3ドア車(50系)を1両130人〜140人乗りの4ドア車(30系)に置き換えて,15%輸送力を増やすことになった。 

北大阪急行電鉄の整備の枠組み 

 1967年に北大阪急行電鉄は設立されたが,資本金15億円で,出資者と出資比率はそれぞれ京阪神急行電鉄50%,大阪府25%,関西電力5%,大阪瓦斯,三和銀行,住友銀行,大和銀行,太陽神戸銀行各4%である。第三セクターではあるものの,公共主体は大阪府の25%に止まり,民間主体の事業者である。大阪市も沿線の吹田市,豊中市も出資していない。

 南北線江坂〜千里中央5.9kmと東西線千里中央〜万博会場4.0kmが建設され,建設費は南北線が77億円,東西線は38億円である。東西線は万博開催中だけの営業で,万博の閉幕とともに営業を廃止し,線路は撤去された。南北線は府道新御堂線と合同施工され,道路の中央部に線路が敷かれた。また東西線も府道中央環状線と中国縦貫自動車道の中央に建設され,線路撤去後は中国縦貫自動車道の用地に転用された。

 建設財源は,資本金15億円のほか,日本開発銀行からの借入29.5億円,市中銀行からの借入32.5億円である。日本開発銀行からの借入は,私鉄輸送力増強工事に対する低利融資で,金利7%,2年間据置後20年間元利均等償還となる。 

万国博覧会の閉幕

 直通運転は万博終了までの期限付きであった。御堂筋線は,大阪市でももっとも混雑する路線であるため,千里ニュータウンからの旅客の流入により輸送力が限界を超えると考えたのである。また北大阪急行電鉄との直通運転で輸送力の増強を図っても,都心部でのバイパス路線の整備が成って輸送力に余裕ができると,その投資が無駄になる可能性があると考えた。あくまでも直通運転は,万博輸送中に限定することが主張された。

 しかしながら,現実に路線が完成し,千里ニュータウンの通勤の足として利用されていることから,直通運転を中止することもできないと考えるにいたり,万博閉幕後も千里中央〜江坂間の営業は継続することとなった。万博終了間際の19709月に相互直通運転に関する協定を締結して,同14日から千里中央の新ターミナルを終点とする新しい形で直通運転を開始した。


モノレールと新交通システム グランプリ出版 2310円込

RAILLINKs.jp