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JR東西線

関西高速鉄道について

                 佐藤信之

 

記事:『鉄道ジャーナル』平成115月号掲載

注:入稿後の修正については反映しておりません。また、図・表も省略しています。  

 1997年3月JR東西線が開業した。国鉄〜JRを通じて大阪環状線の環状運転開始以来久々の大阪都心部での新線開業となった。ただし,国鉄改革の時期を跨いで進められてきたプロジェクトでもあり,また巨額の建設資金を投入したビッグプロジェクトであるため,その整備手法には目新しいものがある。本稿では,このJR東西線の建設と,JR西日本の間連路線の輸送力増強工事について解説しようと考える。

計画の起こり

 国鉄は,1981年4月3日運輸省に対して片福連絡線と大阪外環状線建設について工事施行認可申請を行った。大阪の都心部に地下鉄新線を建設して片町線と福知山線とを接続することを計画したもので,現在のJR東西線計画の起源である。

 当時,両線の沿線では都市化が進行しており,197910月に片町線長尾〜四条畷間の複線化,1981年4月には福知山線の塚口〜宝塚間の複線電化が開業した。さらに宝塚〜篠山口間の複線化と宝塚〜城崎間の電化工事か進められていた。

 この片福連絡線は,1971年都市交通審議会答申で緊急整備路線して盛り込まれ,1973年大阪圏高速鉄道網整備推進会議で国鉄が建設主体となることが合意された。しかし,その後のオイルショックの勃発や国鉄の財政難があって計画は宙に浮いてしまうことになる。

 それに対して,地元大阪市から強い要望が出され,197812月国鉄,大阪市による片福連絡線調査委員会を設置。計画実現に向けて協議か進められた。委員会では,@国道2号線ルート,A東海道線併設ルート,B折衷ルートの3案について検討された。京橋から桜橋(現北新地)までは共通で,これ以西の区間が国道2号線の地下を通って尼崎に至るルートと,東海道線に沿って進むルートである。結局市の整備した歌島橋のバスターミナルに接続し,東海道本線との直通運転が可能でありまた国鉄用地も利用できる折衷案が採用されることになった。

 当時の計画では,1981年度内に工事に着手して,おおむね10年で完成するとしていた。 

「関西高速鉄道」の設立 

 JR西日本と自治体との協議の結果,自治体主導の第三セクターを設立して建設主体とし,1988年5月25日「関西高速鉄道」が設立された。完成後は関西高速鉄道が施設を所有し,JR西日本が貸付を受けて運営することになるが,管理,施設の更新はすべてJR西日本が担当する取り決めであった。

 創立時の資本金は11億円で,大阪府,大阪市,JR西日本が22.5%ずつ。日本開発銀行,兵庫県,尼崎市5%。その他関西電力,大阪ガスなど17.5%の出資を得た。

 選任された役員
 社長    芝田 博(関西電力常務)
 常務取締役 島田和彦(前大阪府監査委員)
       後藤 清(大阪市計画局理事)
       深田彰一(前本州四国連絡橋公団常任参与)
       原  弘(日本開発銀行審査部長) 

198810月関西高速鉄道は第三種鉄道事業免許を取得した。ただし,JR西日本も運営者として第二種鉄道事業免許を得たはずであるが,『鉄道統計年報』などに記述がないので確認できない。

 当時の計画では,総工費2,350億円。1988年秋に着工して70年の完成を目指すというものであった。また財政投融資資金を投入するために,財投機関の日本鉄道建設公団が建設を担当することになり,P線方式が適用された。 

工事の概要 

 1989年運輸政策審議会10号答申で,京橋−梅田付近−尼崎間の片福連絡線が2005年までに整備すべき路線として盛り込まれた。お墨付きを得たことで1989年2月鉄道事業法にもとづく工事施行認可を受け,3月には片町駅構内の工事が発注された。そして11月安全祈願式と起工祝賀会が開催され,さらに199111月には大川トンネルでシールド機の発進式が行われた。

 1992年4月3日大阪市福島区海老江で地下水が遮水壁を破って浸水,道路を陥没させる事故が発生した。大阪市は,地盤沈下を招いていた地下水の汲み上げを法で規制したため,工事区間では地下水の推移が地下1メーターまで上がっていた。強い地下水流が遮水壁のセメントの一部を押し流したことが原因と考えられた。現場には約3万トンの水がたまっており,翌年1月まで工事は中断することになった。

 また,最大地下40mという地下深いトンネル工事であったため,事前調査では予測できなかった現象に手間取り,この時点で全体の30%しか完了していなかった。1994年3月,それまで1995年春の開業を目指していたが,これで97年はじめに延期されることになった。 

建設費と財源

 工事は,駅間をシールド工法,駅部を開削工法とした。また北新地駅は曽根崎ジオフロント計画のもとづいて地下1階に駐車場を備える5層構造の大規模なものとなった。また北新地駅は,JR大阪駅,阪神,阪急,地下鉄梅田駅,西梅田駅を結ぶ公共地下歩道に繋がり乗り換えの便を図っている。

 また,大阪天満宮〜御幣島間では,建設省が実施する国道2号線の共同溝工事と同時施工し,駅部では鉄道トンネルと一体構造で建設された。

 着工当時の見通しでは,総工事費は2,500億円,建設中の金利を含むと2,800億円であった。しかしその後,1993年地下水の噴出後の工事の再開の際に,総工事費3,400億円,建設中の金利を含んで4,000億円に改定された。

 内訳は,駅間にP線資金2,250億円,駅部に出資金として800億円,日本開発銀行からNTT−C型無利子融資120億円,有利子融資80億円さらに市中からの借入150億円の計1,150億円が投入された。

 P線方式とは,鉄道公団が建設財源を調達し,施設が完成して事業者に譲渡されたのちに,25年にわたり元利均等で償還されることになる。さらに譲渡後の金利について5%を超える分を国が補填することになるが,関西高速鉄道の場合には実際に調達した資金は平均で5%を下回っていたので,利子補給は受けていない。

 関西高速鉄道の事業開始にあたって日本開発銀行による出資,融資の制度が強化された。すなわち,昭和63(1988)年度予算で,都市鉄道の整備を促進するため新線建設や多目的旅客ターミナルを「民間事業者の能力の活用による特定施設の整備の促進に関する臨時措置法」の特定施設と位置づけることで,NTT株式売却利益を活用した,日本開発銀行による無利子融資(NTT−C)が認められた。関西高速鉄道には,さらに従来からの日本開発銀行の私鉄輸送力増強に対する都市開発枠からの低利融資が実施された。

 また,日本開発銀行は1987年都市開発のために緊急を要する新線建設に対して出資を行うことになった。そして関西高速鉄道が最初の出資のケースとなった。その後,横浜高速鉄道,広島高速交通などに対しても出資が行われている。

 同じ頃東日本でも常磐新線の計画が進められていた。1988年の「基本フレーム」では,整備主体を第三セクターとし運営はJR東日本。地下鉄建設費補助と公団P線の方式を組み合わせると決められ,ほぼ関西高速鉄道とおなじ枠組みが適用される予定であった。ただ,北千住以南に対して地下鉄建設補助が検討された点は,実質補助率で建設費にたいする4割強の資金が補助金として提供されることから,関西高速鉄道より優遇されていたということが言えるであろう。 

開業

 1997年3月8日京橋〜尼崎間の全線を開業させ,京橋で片町線,尼崎で福知山線,東海道本線への直通運転を開始した。西は西明石,新三田,東は木津まで1本の列車で繋がることになった。なお,片町線の京橋〜片町間については線路が付け替えられたことで,3月7日をもって廃止となった。

 全線12.5kmの路線で,そのうち10.2kmが地下路線である。途中淀川をくぐる地点では,国道2号線の淀川大橋の橋脚の基礎の下が最深部で地下40mの深さとなる。また都心部では既存の地下鉄の下を縫うように進むため,京橋駅から隣の大阪城北詰を抜けたところあたりまでで一気に地下30mまで下ることになる。この区間に,京橋側から大阪城北詰,大阪天満宮,北新地,新福島,海老江,御幣島,加島7駅が新設され,京橋駅で大阪市営地下鉄鶴見緑地線,大阪天満宮,北新地駅で谷町銭,堺筋線,御堂筋線,四ツ橋線,海老江で千日前線と接続する。

 開業時は全列車7両編成であるが,将来は8両編成にも対応した構造で建設された。また,移動制約者に対する対策として全駅にエレベーター,エスカレーターが設置された。

 関西高速鉄道は1日当たり旅客数を開業5年後で20万人を予想したが,実際には開業の翌年1月で1日13万4千人に止まった。土曜・休日に限った場合5万9千人に過ぎないという。(『朝日新聞』1998年3月5日夕刊)   JR西日本は関西高速鉄道に対して線路使用料を支払うことになるが,開業時年額138億円とし,以降3年度こどに10%ずつ引上げられる。最終年度には325億円になり,30年間にわたり総額6,598億円が支払われることがきまっている。この額が建設中の金利を含めた建設費3,400億円の2倍にのぼる上に,この金額を支払っても所有権が移ることもないため,JR西日本は施設の買い取りを検討していることが報じられた。しかし,施設の買い取り費用は民間からの借入金に頼らなければならなく,金利負担が膨大になることが予想されることから,結論には至らなかったようである。(『朝日新聞』1998年3月5日夕刊)

福知山線複線化

 国鉄時代,福知山線は全線単線・非電化の1時間に1本列車が往復するローカル線であった。福知山線の近代化の第1段として,尼崎〜宝塚間の電化と塚口〜宝塚間の複線化のプロジェクトが始まった。沿線に北摂・北神ニュータウン(現神戸三田国際公園都市)という大規模な住宅地の開発計画が登場したことにともない,輸送需要の増加に対処するために立案されたものである。神戸三田国際公園都市は,住宅・都市整備公団,兵庫県,神戸市が整備する,三田市と神戸市に跨る約2,000haの開発面積を持つ,計画人口約14万人の複合機能都市である。

 国鉄は,まず1968年塚口〜宝塚間の複線用地の買収に取り掛かり,1973年3月に工事に着手した。当初1975年の完成を予定していたが,結局1981年に電化と同時に複線の使用を開始した。そしてこの区間に1時間に1本の頻度で電車を増発,輸送力は倍増した。

 国鉄は,1977年宝塚〜篠山口間の工事施行認可を得て工事に着手した。そして1986年8月宝塚〜三田間,同年10月三田〜新三田間の複線化が完成。また11月には宝塚〜福知山間と山陰本線の福知山〜城崎間の電化開業を迎えて,電車特急「北近畿」が登場することになる。

 国鉄は新三田〜篠山口間の複線化を完成できず,1982年分割民営化でJR西日本に引き継がれた。JR西日本は,片福連絡線の工事の進捗に併せて,1992年3月12日福知山線新三田〜篠山口間の複線化計画を発表した。用地買収費を含む総事業費約150億円で,財政投融資資金を投入するため,財投機関である日本鉄道建設公団が工事主体となるというもの。

 建設財源には,鉄道整備基金の都市鉄道整備に対する無利子融資の制度を活用して40%にあたる60億円を確保。また同額を自治体から無利子融資を受けることになった。兵庫県のほか三田市,丹南市,篠山町,西紀町,今田町が負担した。これらの資金は,完成後5年間据置ののち10年間で均等返済される取り決めである。のこりは,建設にあたる鉄道公団の資金が充当されるが,これは財政投融資資金と公団の発行する鉄道建設債が財源となる。 

  自治体による無利子融資の分担額(単位:億円,%)

  兵庫県* 41.48(69.1)    三田市  9.45(15.7)  丹南市   4.48( 7.4)    篠山町  2.8 ( 4.6)  西紀町   0.92( 1.5)    今田町  0.87 ( 1.4)   *)総額60億円から市町の負担分を除いた額

1997年3月8日,JR東西線の開業と同じ日,新三田〜篠山口間の複線の使用を開始した。

モノレールと新交通システム グランプリ出版 2310円込

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