RAILLINKs.jp

京都高速鉄道について

佐藤信之

 

記事:『鉄道ジャーナル』平成101月号掲載

注:入稿後の修正については反映しておりません。また、図・表も省略しています。

 今年1012日に京都市の地下鉄東西線は開業する.昭和56年に開業した烏丸線が南北の軸に沿って建設されたの対して,東西の交通軸を担う路線として計画された.あわせて併用軌道区間を持つ京阪電気鉄道京津線の一部を地下化して大量輸送機関に転換を図るというもの.当初建都1200年に当たる1994年の開業を目指していたので,3年余り遅れたことになる.

 東西線計画の概要については,昭和59年9月17日京都市総合交通行政推進委員会の場で発表された.そして昭和63年4月8日に,路線の一部区間の建設を担当する第三セクター京都高速鉄道が設立された.昭和61年度から63年度の間に採択された地下鉄に対する補助は,それ以前の建設翌年度からの分割交付に対して開業翌年度からの分割交付に制度が後退していたことから,地下鉄建設費補助の魅力が減退していた.また東西線全線を交通局が建設する場合,財源の制約から一気に開業させることができないと考え,一部区間を第三セクターの施工として日本鉄道建設公団のP線方式が適用された.P線方式は,開業後の5%を超える利子について国が補給するという制度である.現在のような低金利とは違ってバブル経済真っ只中とあって,それなりに魅力のある制度であった.なによりも,交通局の施工には地方債の起債により自己調達がもとめられるが,P線方式では鉄道建設債券などにより鉄道公団が調達することになるので,多様な財源調達が可能となった.ただし,京都高速鉄道の工事費1,544億円のうちP線方式は900億円で,残りは自治体の出資と転貸債によって充当されたという.

 昭和63年7月14日,京都高速鉄道は三条京阪−御陵間の建設主体として第3種鉄道事業者,京都市交通局は二条−三条京阪間と御陵−醍醐間の第1種鉄道事業者,三条京阪−御陵間の第2種鉄道事業者の免許を取得した.三条京阪−御陵間は京阪京津線の既存路線と競合するが,地下鉄の開業にともない廃止され,京津線京津三条−浜大津間の現在2両編成で運転している準急電車を4両編成に置き換えて,地下鉄の京都市役所前まで乗り入れる.ただし,京阪電気鉄道は,地下鉄区間の鉄道事業者免許は持たず,京都市役所−三条京阪間1種,三条京阪−御陵間2種免許を保有する京都市交通局への片乗り入れの方式をとることになった.京阪にとっては,大津線唯一の収益区間を手放すことになるが,補償については話題にならなかったという.ただ,京阪が第2種免許を取得することも検討された.

 京都高速鉄道は,当初資本金60億円であったのが,後に100億円に増資.京阪電気鉄道の出資比率も,当初12%から5.6%に低下した.現在京都市が80.8%を出資している(京都市交通局高速鉄道本部).

 地下鉄東西線の建設では,多くの障害に遭遇することになる.1つが文化財保護の問題である.

 京都の街は,どこを掘っても遺跡に当たるといわれる土地柄から,文化財保護の視点が大きく求められる.すなわち,国史跡に指定されている二条城周辺では,1990年8月から京都市埋蔵文化財研究所が事前調査していたところ、濠の外側の柵の柱穴や当時の道路面が出土。その下層から神泉苑内の建物に使われたとみられる瓦数点が初めて見つかった。このような史跡内の地下鉄工事に史跡の破壊につながりかねないオープンカット工法が採用されていたことに対して文化庁からクレームが付いた.もともとこのような史跡内の工事は文化庁と工事施工者が事前協議を重ねるのが慣例であるのに,市は十分に協議をせずにオープンカット工法を採用したという.(『毎日新聞』90.12.13大阪本紙夕刊)

 そのような中,二条城前発掘調査で、平安京の庭園「神泉苑」の池の北端遺構や、瓦の破片などが出土した.神泉苑の造営当時の遺構や遺物が見つかったのは初めてで、埋蔵文化財研究所は「平安京発掘史上貴重な発見」としている.

 二条城前の地下鉄工事は1月末着工の予定だったが、京都市は神泉苑遺構の保存などを巡って文化庁との協議を進める必要が生じたため,着工は大きく遅れることになる. (『毎日新聞』91.02.05大阪本紙朝刊)

 また,バブル経済の中で工事が進められたこともあって,工事費の高騰の問題に直面する. 1994年度頭で事業費総額は当初計画の1.92倍の4,710億円に膨張する見通しとなった.内訳は,交通局分3,160億円,第三セクター分1,550億円である.財源の不足分について、一般会計からの出資,補助金のほか、国,市,民間出資者に支援を求めるという。特に、国に対し起債措置や、財政投融資の増額などを求めた。

 これに対し運輸省鉄道局財務課は「全市的なリストラを進めない限り、安易な追加支援はしない」としたことから,市は「経営健全化計画」を策定して市町部局を含めたリストラに努めるとし.また工事費の膨張の原因を、交通局,市長部局,第三セクターの連絡調整の不十分として、交通局に「東西線建設工程管理委員会」を新設して管理体制の強化を図ることにした。しかし,運輸省は「全国の地下鉄事業の中でも異常な膨張。市の責任部分まで国は支援しない」として,国による新たな支援措置は実現しなかった.(『朝日新聞』94.06.24朝刊)

 京都高速鉄道についても,1994年中に建設費が当初の940億円から1,550億円に脹らむことになったことから,京都市は95年度から3年間で約550億円の財政支援が必要になると発表した.これに対して自治省は,第三セクターへの出資、貸し付けについて市に起債を認める.起債の元利償還に、国が支援する.会社の元利償還に出す市の補助金にも支援するという,京都市による京都高速鉄道に対する助成措置を認めた.(『朝日新聞』94.12.26朝刊).市は,自治省の地下鉄緊急整備事業相当の支援を求めたが,起債措置,交付税措置ともに認められたことになる.第三セクター鉄道に対する貸し付けの原資となる自治体による起債が認められたのは,1994年度からである.

 198811月着工,建都1200年記念の1994年完成を予定したが,工期も当初計画から約2年10カ月前後遅れの「1997年秋」に変更された.東西線の開業用時の利用者を一日156000人と見込み,開業16年目の単年度黒字に転換,31年目に累積赤字を解消できるとする.

 東西線の開業にあわせて,市役所前の御池通には店舗面積4,700平方メートルの地下街が開設される.京阪三条,阪急河原町と市内随一の繁華街新京極に隣接する商業地として有利な立地にあることから,一日5万人の利用を見込む.また終点の醍醐駅には地下1階地上5階の図書館や老人福祉センターなど公共施設を併設する商業ビルが開設される.その他,山科駅前地区再開発事業,二条駅整備事業,醍醐団地再生プロジェクト事業など,多くの沿線開発プロジェクトが推進されている.

1995年9月,東西線の開業にともない市バス醍醐営業所の廃止の意向が示された.1994年度市バスは221100万円の赤字を計上,とくに山科区と伏見区の北部を営業エリアとする同営業所の赤字は7億3000万円に達していたという.市民からは交通が不便になるとして反発されたことから,19968月に交通局は「バス系統研究委員会」を設置して,東西線開業に伴う系統の再編成について協議することになった.その結果をもとに19971月,山科・醍醐地区からの撤退,市内中心部の系統の統廃合などによる市バスの縮小方針を公表した.将来的には,市中心部の58系統を将来は25系統まで減らすという.

 さらに,1997年8月には東西線開業時の具体的市バス整理計画が発表された.それによると,市中心部では9系統を廃止して循環系統など5系統を新設.14路線の経路を変更.山科・醍醐地区の13系統を廃止して撤退する.廃止路線を補うために京阪バスの路線を見直すが,それでも5区間4kmでバスの運行が無くなるという.この整理の結果,市バスは86系統から69系統に減少する(『朝日新聞』1997.1.31京都版).また,東西線の開業で,京阪電気鉄道京津線の京津三条−御陵間が廃止されるが,新設軌道区間の蹴上−山科間にある九条山駅が廃止され,日ノ岡,御陵の2駅が御陵1駅に集約される.

 東西線の駅間距離は約1km,それに対して京津線は600m,バスは200300mである.高速鉄道の開業により,既存の路面電車や路線バスが廃止されるのは付き物だが,高速鉄道は木目の細かいサービスが苦手である.新線の開業にあたっては,極力足の便が悪化する人が生じないように努めるべきであるが,今回は市バスの赤字経営の問題という別の配慮が働いたようだ.

 東西線は,醍醐からさらに六地蔵まで2.5kmの延長を計画している.19973月,1998年度に免許を取得して1年かけて都市計画決定など手続きを進め,着工から5〜7年で開業させる方針を公表した.事業費は700億円を見込む.一部路線が宇治市にかかるため,京都府や宇治市と財政負担に付いて協議することになっている(『朝日新聞』1997.3.6京都版).


モノレールと新交通システム グランプリ出版 2310円込

RAILLINKs.jp