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「ゆりかもめ」について

佐藤信之

 すでに都心の観光名所として定着した感のある「ゆりかもめ」であるが、臨海副都心計画の紆余曲折の中で、当初はその採算性に危惧するむきも多かった。副都心開発が縮小されたことで、沿線には空き地も目立つものの、都心の至近距離にあるということで、その潜在的価値は大きい。

臨海副都心計画

 東京都は、昭和5712月に策定した「東京都長期計画」に、東京港の港湾地区を再開発して、未来型の臨海副都心「東京テレポートタウン」の開発を盛り込んだ。

 同年11月に成立した中曽根内閣は、民間の資金・活力の導入による公共事業の推進を重要な政策課題として掲げ、この臨海開発がその柱と位置付けられた。政府は、関係6省庁と都による「開発推進協議会」を設置して、各官庁間の調整を行うことになる。しかし、まれにみる都心部での大規模開発とあって、各省庁、民間入り乱れての権益競争となった。62年、運輸省は港湾開発などの「基本計画」を一方的に発表、同年12月には、港湾地区内の建物の規制を緩和して、港湾地区内で会議場、展示施設、電気通信施設、商店、飲食店、ホテルの建設を可能とした。港湾地区内は、建設省が担当する都市計画法の適用が及ばない地域であるにもかかわらず、ほとんどの都市施設が整備することが可能となったことに建設省が反発した。このような混乱した状況のなかで、東京都の鈴木都知事は都主導による開発を主張、金丸副総理はこれを支持して、現在の臨海開発の枠組みが固まった。

 都は、昭和63年までに臨海副都心の基本計画を決定。平成元年4月には、開発事業化計画の内容を公表した。448ヘクタールを埋め立てて、都心と結ぶ交通機関、ライフラインの共同溝、下水道処理施設など都市基盤整備を実施するという計画で、その整備費用は、進出企業へ用地を貸し付けることによる借地料を当てるというものであった。そして、平成6年度を開発始動期と位置付けて、開発の核となるテレコムセンター、国際展示場を完成させるとともに、街開きを記念して、平成83月に世界都市博覧会を開催するとした。

 この臨海副都心開発の進捗に合わせて、平成5年度末には新交通システムを開業させるとし、その他に、日の出〜青海、日の出〜有明南間の海上輸送を計画した。

 しかし、平成3年のバブルの崩壊で、企業が進出をしぶるようになったために、都は借地料を40%近く引き下げた。さらに、平成74月、青島幸男が都市博中止を公約に都知事に当選したことで、臨海副都心計画は見直しを余儀なくされる。

 平成8610日臨海副都心計画の基本方針見直し案を発表した。従来の計画では、就業人口106千人、居住63千人であったのを就業7万人、居住4万人に変更するとともに、副都心広場周辺と青海一区南側の合わせて約19ヘクタールの利用方法を都民から募る「まちづくり都民提案制度」を設けるというもの。

 都市基盤整備については、関連広域道路整備のうち、副都心と離れた部分を副都心開発の収支から分離、新交通システム豊洲〜勝どき間や臨海道路の二期分についても「整備時期検討路線」として収支から外して、総事業費を大幅に圧縮した。一方で、公共公益用地(一般会計負担)の地代を時価に変更。国際展示場への土地貸付料についても、2016年から時価に変更することで収入の増加を図ることとした。

 また、道路や公園の維持管理費を一般会計の負担にするとともに、住宅用地としていた「有明の丘」約17ヘクタールを防災拠点として一般財源で買取ることで、収支の改善を目指すことになった。

 この見直し案に基づいて、平成81225日学識経験者らによる東京都の「臨海副都心開発懇談会」は中間報告をまとめることになる。

 なお、臨海副都心開発の枠組みを整理すると、整備にかかる収支を一括して扱うために臨海副都心開発事業特別会計を設置。この特別会計から埋立事業特別会計に負担金という形で埋め立て費用が支出され、埋め立てた用地はいったん臨海副都心開発特別会計に貸し付けられのちに、さらに進出企業や公共施設用地として貸し付けられる。進出企業などは臨海副都心特別会計に対して借地料を支払うというもの。

新交通システムの計画

 東京都港湾審議会は昭和561月、副都心に軌道系交通機関の導入を検討すべきことを提言。5712がつに策定された「東京都長期計画」で「13号地その1と既成市街地(最寄駅田町)を結ぶ新交通システムの整備」が事業計画として認知された。

 東京都は、昭和608月、学識経験者、関係官庁、東京都、関係各区で構成する「東京臨海部新交通システム計画委員会」(委員長、八十島義之助)を設置。昭和612月に基本ルートなどに関する委員会第一次報告があり、さらに621月には最終報告を得ることになった。これを受けて、都は、経営主体として第三セクターを設立することを決定。また、路線についても、626月に策定された「臨海部副都心開発基本構想」の中で、有明までとすることが明記された。そして、634月東京港第五次改定港湾計画において計画事業に位置付けられ、本格的に事業に着手することになる。

 最終的に、路線区間は、新橋〜有明間約12.1kmで、側方案内方式の新交通システムを採用することとし、車両は、「新交通システムの標準化とその基本仕様」とレインボーブリッジの導入空間との制約条件の範囲内で、「標準化仕様」よりやや大型の2ドア車両を導入することになった。自動運転を実施して、当初計画では、開業時1日あたり52千人を運ぶ見込みであった。後に、進出企業の撤退から、43千人に修正された。

第三セクターの設立から開業まで

 昭和634月、第三セクター「東京臨海新交通」が設立された。授権資本は110億円で、そのうち67%が東京都、33%が民間銀行の出資である。また、東京都出資分のうち、10ポイント分が臨海部ですでにバス路線を経営している都交通局が出資し、そのほかは一般会計と臨海副都心特別会計が分担した。民間銀行の中で出資比率の大きいのは、日本興業銀行と富士銀行の5%ずつである。社長には、当時の鈴木俊一都知事が就任し、副社長には民間から日本興業銀行出身者が当てられた。

 この会社は、臨海副都心開発に関連して設立された多くの第三セクター同様に、都が主体となった公共的性質の強い第三セクターである。その背景には、本来都自身が担当すべき都市インフラ整備を、財政的な問題からやむなく(?)民間資金を導入したものとの認識があるらしい。もともと公共主体には効率的経営という目的がないため、会社経営には民間企業家の発想が求められるわけであるが、そのような形での民活という意味合いは持たなかった。

 同年528日に新橋〜有明間のうち、新橋〜日の出ふ頭、お台場海浜公園〜テレコムセンター、国際展示場正門〜有明間が軌道法により特許を、残りの日の出ふ頭〜お台場海浜公園、テレコムセンター〜国際展示場正門間(開業時名称)について鉄道事業法により免許を申請した。新橋〜日の出ふ頭間は既成市街地で都市計画法が適用され、建設省の管轄する都市街路に併設されたことから、建設省が関わる軌道法に依拠したのは自然である。しかし、日の出ふ頭から東京港の港湾地区に入り、さらにレイボーブリッジを渡ると運輸省の管轄となる港湾法に基づく臨海副都心の事業区域である。

 運輸省と建設省の間での権限争いのなかで、都が調整案として臨港道路と一般道路を半々とすることを提示したことから、港湾地区内に建設省の管轄する一般道路が介在することになり、その道路上に新交通が建設される区間が軌道法の対象となったのである。なお、実際には半々にすることができなかったことから、将来の延長区間を一般道路とすることで決着したことから、新交通の豊洲延長区間は港湾地区でありながら全区間軌道法にもとづくことになった。

 昭和62114日に、芝浦埠頭で新交通システムを併設するレインボーブリッジの起工式が営まれ、都港湾局の実施するインフラ部の工事が始まった。ただし、国指定史跡の品川台場の保護手続き・対策なしに着工れたために文化庁からクレームが付き、本格的に工事に着手するのは翌年に入ってからである。

 一方、インフラ外の整備を担当する東京臨海新交通は、昭和631128日に全区間について免許、特許を取得。翌年310日に鉄道区間の「日の出ふ頭〜海上公園間」について工事施行認可を受けて、翌日この区間の工事に着手した。

 また、建設省側の手続きとして、平成元年324日竹芝〜国際展示場(現有明)間について都市計画決定を見た。新橋〜竹芝間は、汐留地区の開発計画が未定のため先送りとなった。これを受けて、249日軌道区間「竹芝ふ頭〜日の出ふ頭、海上公園〜青海ふ頭、展示場正門〜国際展示場間」と鉄道区間の「青海ふ頭〜国際展示場正門間」(建設時名称)の工事施行認可を受け、鉄道区間は翌日、軌道区間は725日にそれぞれ工事に着手することになる。

 新橋〜竹芝間については、27月に都市計画決定、366日工事施行認可と手続きが進められ、同年625日に工事に着手した。工事が本格化するのは大きく遅れて48月のことである。

 総事業費は1,702億円で、そのうち都の事業となるインフラ部は1,151億円、会社が担当するインフラ外は551億円である。また、インフラ部のうち、軌道法区間5.3kmは都の建設局、鉄道事業法区間6.8kmは都の港湾局が施工した。

 一方、インフラ外の整備に対する財源は、建設費の20%に出資金が当てられ、その他は日本開発銀行と民間銀行から借り入れた。自治体が起債して会社に貸し付ける転貸債は利用されなかった。

 平成4年度には、車両基地内に中央管理棟、検査棟、保守車車庫が完成して、翌年215日に本社を中央管理棟内に移転した。その後、車両基地、駅舎内部、車両・信号・通信などのシステム部分を完成させて、平成71031日に開業式を挙行した。営業の開始は翌日からである。

 ただし、新橋駅については、駅の支柱工事が地価の駐車場と商店街を貫くことになることから移転交渉をつづけてきたが、これに手間取ったため、開業には間に合わず、100mほど東に寄った国鉄清算事業団の用地を借用して仮駅が設けられた。相対式22線の構造で、現在では輸送力増強の最大のネックとなっている。

 その後、1041日に、会社名を「ゆりかもめ」に変更。

 平成11年度には、株主の日本長期信用銀行が経営破綻して一時国有化した後のアメリカ企業への売却されるが、米社との取り決めにより、長銀の保有株は預金保険機構に債権譲渡された。

輸送状況と運行

 開業年度に当たる平成7年度の1日当たり輸送人員は、免許・特許時の予測値49,258人に対して27,183人にとどまったことから、マスコミはこぞって冷ややかな反応を示した。しかし、翌年4月に国際展示場・東京ビックサイトが開業すると、定期外旅客が大きく増加して、旅客人員は以前の倍に躍進した。その中には、「ゆりかもめ」の乗車自体を目的とした利用者も多く見られ、「ゆりかもめ」が観光資源として認知されたことを示した。

 また、台場地区に住宅・都市整備公団の高層住宅が建設され、また、フジテレビが本社を台場地区に移転するなど、沿線の開発が進行したことで、「ゆりかもめ」の旅客数も順調に伸ばしていった。

 平成8年度は、1日当たり予測の58,099人を上回る64,468人を実現。平成11年度の同旅客数は96,578人となった。

 さらに、平成124月には、沿線にソニー・アーバン・エンターテインメントが映画館やゲーム施設を備えた複合施設をオープンさせ、年間500万人の利用を見込んでいる。

 旅客数の増加に伴って、開業以来数度にわたって輸送力増強策が講じられた。

 車両数は、平成711月の開業時には13編成(6両編成)が用意されたが、96月に2編成、102月と113月にそれぞれ3編成を増備して、現在は21編成を保有する。

 次にダイヤ改正の状況を示す。

平成8年7月 第一次ダイヤ改正
  朝夕ラッシュ時、6分間隔の運行時間帯を拡大
平成9年3月 朝ラツシュ時、5分間隔の運転を開始
 同年7月 5分間隔の運転時間帯を拡大
平成10年3月 朝夕ラツシュ時、運転間隔を4分に短縮

平成11年3月 朝夕ラツシュ時、3分30秒間隔を実施

 現行ダイヤは、平成12321日に改正されたダイヤで、沿線でのイベント客や行楽客の利用が増えたことから、土休日の日中4分間隔を実施するとともに、夜間の運転間隔短縮をはかった。

現行ダイヤ

平日  朝夕ラツシュ時 3.5分間隔

    日中 5分間隔

土休日 日中 4分間隔

運転本数 平日  上り229本、下り230

     土休日 上り229本 下り230

今後の計画

 平成8年、国鉄清算事業団は、汐留地区の用地売却を急ぐため、新橋本駅の開業に目処を付けるよう都に要望。平成133月には、本駅を開業することになった。その際には、車両を3編成増備して、平日の朝夕の運転間隔を現在の3分半から3分に短縮する予定である。

 また、施設の大半を完成したまま放置状態にあった汐留駅であるが、当初は地下鉄12号線の開業に合わせて営業を開始することを明らかにしていた。しかし、今年末には12号線が開業することになったものの、「ゆりかもめ」の汐留駅の営業開始時期については明らかになっていない。汐留地区の開発に手が付かない現状では、需要に不安があるのかもしれない。

 そのほか、現在有明までになっている路線区間を営団有楽町線の豊洲まで延長する計画である。平成92月 「生活都市東京構想」の中で平成17年度をめどに整備するように位置付けられ、さらに同年11月策定された「生活都市東京の創造・重点計画」の重点事業の1つに挙げられた。

 延長路線は、有明〜豊洲間の2.8kmで、全線軌道法に依拠し、平成10710日に特許を得た。平成17年度末の開業を予定して、1212月に工事に着手した。

 インフラ部は都の建設局が施工しインフラ外は会社が担当する。建設費は、502億円を想定する。

 さらに、豊洲〜勝どき間の路線延長計画があるが、現在のところ構想段階にとどまり、整備時期は将来の検討課題となる。

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