RAILLINKs.jp

埼玉新都市交通について

佐藤信之

 山陽新幹線の新大阪〜岡山間が、開業を目指して最後の工事が進められていたころ。46118日全国新幹線整備法に基づいて、東北新幹線東京〜盛岡間、上越新幹線東京〜新潟間、成田新幹線東京〜成田間の基本計画が決定した。同年41日には、東北新幹線は国鉄、上越と成田新幹線は日本鉄道建設公団に建設が指示され、国鉄と公団は、1014日に東北、上越新幹線、47210日には成田新幹線について工事実施計画の認可を得た。そして、この時の完成予定は昭和51年度であった。

 しかし、埼玉県から東京都にかけて強硬な建設反対運動に直面することになり、用地の取得が困難を極めた。反対運動の中心は、既成市街地を走ることになる大宮以南の区間であった。それに加えて、東北新幹線と上越新幹線が町内で分岐する埼玉県伊奈町でも、同様に反対運動に火がついた。

 両新幹線の分岐点になることで町域が3分割されて、町の将来の発展が阻害されること。東京に至近距離にありながら今まで在来線の交通便益を何ら受けていないのに、ここで新幹線の騒音、振動などの公害が撒き散らされることに対する反発であった。

 新幹線の開業予定は昭和55年度に変更され、52810日には栃木県石橋〜埼玉県久喜間に小山総合試験線を完成したが、すぐには営業運転の開始にはつながらなかった。

 昭和523月、伊奈町議会は「新幹線通過の代償として、新交通システムを導入すること」を決議して、運輸省、国鉄、埼玉県に強く要望。同年12月には、埼玉県は、当時膠着状態にあった大宮以南の問題解決のために通勤別線を新設することとあわせて、大宮〜伊奈町間に新交通を導入することなど、あわせて4つの条件を運輸省に提示した。運輸省は、通勤別線については逸早く建設を約束するが、新交通については、十分な需要が見込めないことから、難色を示した。

 その後も、運輸省、国鉄、埼玉県、伊奈町などで話し合いが続けられた結果、新幹線の構造物に付加した新交通システムの建設で合意。531110日に運輸省、国鉄、日本鉄道建設公団と、埼玉県、大宮市、上尾市、伊奈町との間で、新交通システムの建設、新幹線の建設工事の着手についての協定書などが取り交わされた。

 これで、伊奈町の反対問題は解決して、57623日にまず東北新幹線が大宮〜盛岡間を開業。同年1115日には、上越新幹線も大宮〜新潟間の営業を開始した。

 さらに、路線が上野まで伸びるのは昭和60314日、東京までは、国鉄分割民営化後、JR東日本の手によって、平成3620日に開業した。

第3セクターの設立

 新交通システムの運営会社として、昭和553月「埼玉新都市交通」が設立された。沿線自治体として埼玉県、上尾市、伊奈町と国鉄などが出資し社長には畑和埼玉県知事が就任した。

 授権資本20億円で、内訳は、自治体が40.0%の8億円、国鉄と民間が12億円である。また、自治体のうち、埼玉県が7億円で、大宮市、上尾市、伊奈町が合わせて1億円。国鉄の出資額は埼玉県と同額の7億円である。この出資分は、国鉄改革でJR東日本に引き継がれた。

 計画当初、沿線は農村地帯が広がっており、中量輸送機関を維持できる需要は見込めなかった。そこで、軌道、駅、車庫などのすべての施設を新幹線の建設を担当する国鉄と日本鉄道建設公団、そして自治体が用意することとし、会社には有償でこれを賃貸することにする。

 そして、この時点での建設費の見込み額は、総額3627500万円であったが、軌道、駅、車庫などにかかる3261900万円については、国鉄、日本鉄道建設公団と自治体の負担。会社が用意するのは車両費365600万円だけであった。

 また、1日の旅客数の見込みは開業時3万人、10年後47,000人、20年後60,000人であった。

 建設は、国鉄と公団が担当し、設計は国鉄が行った。国鉄は、新幹線の建設スケジュールにあわせるためにシステムの研究・開発を行う時間的な余裕がなく、既存のシステムを活用することとした。当時は、新交通システムの標準システムが制定される以前で、神戸新交通のポートライナーと大阪市のニュートラムについて検討された。国鉄が採用したのは、大阪市の方であった。しかし、ニュートラムは無人運転を想定したシステムであったが、無人運転とすると工事費が大きく膨らむことになるため、ワンマン運転方式が採用された。

 昭和55124日に地方鉄道法により大宮〜小針間の鉄道免許を申請した。当初は、会社設立直後の3月か4月に申請する予定であったが、運輸省、建設省、農水省間での調整に手間取って遅れた。当時、開業をまじかに控えていた神戸新交通、大阪市のいずれの新交通システムも軌道法に準拠して、建設省と運輸省の共管とされていたのに対して、埼玉新都市交通の場合には、運輸省が単独で管轄する地方鉄道法に基づくこととしたため、建設省との意見調整が必要となったのであろう。農水省との関連は不明である。

 ところで、運輸省は、埼玉新都市交通を、札幌市の地下鉄と同じ案内軌条式鉄道として分類している。

 昭和5643日、大宮〜小針間の免許を取得。同年1012日には工事施行認可を受けて、翌日工事に着手することになる。当初、新幹線の開業にあわせて、5710月の開業を目指したが、一部用地買収に手間取り、581222日、大宮〜羽貫間を先行開業させた。羽貫〜小針(現内宿)間の1駅間を残すことになったが、この区間では、ひとりの地権者が強行に用地買収に反対して抵抗していた。平成2217日に土地収容法に基づいて強制代執行が実施され、同年82日に内宿までの全線を完成することになった。

建設費と財源

 最終的に建設費は、会社負担の車両費が27億円で、その内17億円が出資金、168800万円が銀行からの借り入れで調達した。結局、会社負担分を大きく圧縮した上に、その大半を資金コストのかからない出資金で充当して、将来の採算性に大きく配慮したものとなった。(会社負担分の詳細は、予備費、試験費、保守管理費、保守用車、設計委託費を含む車両費として2,475百万円、総経費として213百万円。)

 また、その他軌道、駅、車庫の建設費用に対しては、国、JR東日本が192億円、日本鉄道建設公団が49億円、自治体が27億円を支出した。

 総工事費は、これに3億円を加えた291億円となった。1km当たりにすると23億円弱となるが、これは神戸新交通ポートライナーの68億円、大阪市ニュートラムの61億円を大きく下回り、比較的安価に建設された桃花台新交通の40億円をも下回っている。ただし、新幹線の高架橋に張り出す形で軌道が設けられていることから、独自の橋脚を必要としないなど、特殊な事情があるので、単純には比較できない。

開業

 埼玉新都市交通伊奈線を正式名称とするが、別に「ニューシャトル」という愛称を持つ。東北新幹線と上越新幹線が分岐する丸山に車両基地が置かれ、大宮とこの丸山との間が複線、さらに丸山以北が単線である。軌道桁は新幹線の高架橋に張り出す形で軌道が設けられ、大宮〜丸山間は東北・上越新幹線の並走区間、丸山以北は上越新幹線に併設されている。

 開業時の運行ダイヤは、平日は、大宮〜丸山間がラッシュ時6分間隔、昼間20分間隔、丸山〜羽貫間はラッシュ時15分間隔、昼間40分間隔である。また、休日は、大宮発基準で9時台〜11時台、15時台〜18時台の混雑時間帯が丸山まで15分間隔、羽貫行きが30分間隔。その他12時台〜14時台が丸山まで20分間隔、羽貫行き40分間隔である。

 車両は、当初4両編成7本と6両編成2本が用意され、ワンマン運転を行うため、バックミラー、列車無線、非常発報、中央指令からの放送装置などのバックアップ装置が整備された。大阪市ニュートラムには無い運転台も編成の両端に設けられた。また、運転保安施設として、CTC,ARC,ATCが設備されている。

 この新交通は、計画当初から需要不足が見込まれたため、可能な限りのコスト削減策が講じられた。駅は、ホーム要員を完全に無人化するとともに、駅務員にはパートを採用して、売店との業務を兼ねる(22時から7時までは無人)。ただし、大宮駅については社員が配置され、その他の駅についても新入社員の研修として一時的に社員が配置されている。また、開業にあたって、社員の70%について国鉄OBを採用して人件費の圧縮に努めた。しかし、これによって社員の平均年齢が50歳を超えてしまったという。

 さらに、埼玉新都市交通の場合、すべての施設を借用していることから、その使用料が支払われているが、当初14年目の単年度黒字を見込んで、その間の支払い額の軽減措置が講じられることになった。3年ごとに1億円ずつ使用料が引き上げられて、最近では平成11年度に引き上げられた。

 開業初年度にあたる昭和58年度の1日当たり輸送人員は11,000人、11キロ当たり平均通過人員では5,570人と、見込みを大きく下回った。

 しかし、徐々に自治体による沿線開発が進行していったことで、旅客も次第に増加した。埼玉県は、旅客需要の増加策につながる沿線の整備計画として、総合高校、県民活動総合センター、農住都市、ミニ工業団地などを整備して人口5万人規模の都市を開発する「伊奈新都市計画」を策定。沿線市町もまた、学校や工業団地、住宅団地の造成を進めた。

 平成2年度には、1日当たり輸送人員で25,000人、平均通過人員で13,263人に増加。9年度には通過人員で16,674人を数えるまでとなった。開業時の3倍に当たる数字である。

 経営状況を見ても、昭和61年度までは営業収支の段階で赤字を計上。累積欠損を膨らませた。それが、62年度からは当期損益ではマイナスであるものの、営業収支では黒字に転換。63年度からは当期損益でも黒字となった。しかし、大きく経営が改善されたものの、昭和62年度末で26億円弱にも達した累積欠損が財務状況を悪くしているということができる。平成9年度現在累積欠損は1779百万円まで圧縮しているが、資産合計3019百万円に対して負債合計 が2799百万円と、依然として状況が好転したということを意味している訳ではない。

 旅客の増加に応じて、輸送力が増強された。当初9本中7本が4両編成であったが、613月と623月に2両ずつ中間車を増備、平成元年3月にはさらに4両、48月,9月にあわせて6両を投入して、4両編成を解消した。その他、平成29月、611月、102月、112月には新型車(6両編成)を1本ずつ増備している。

 車両の増備にあわせて頻繁に列車増発を内容とするダイヤ改正が実施された。

・昭和591028日から114日までの期間、沿線のさいたま水上公園で産業フェアが開催され、臨時列車が運転された。

604月=一部列車の区間延長。

624月=朝夕ラッシュ時に4往復を増発するとともに、大宮〜丸山間列車を羽貫まで延長。また、通学輸送に柔軟に対処するため、丸山〜羽貫間に不定期列車7本を設定した。

・平成1年春=午前混雑時に大宮〜丸山間1往復を増発。20時以降にも2本を増発した。

282日=内宿までの路線延長にあわせて初終電を繰り上げるとともに、平日の昼間15分間隔に増強した。

210月=6両編成1本を増備して、朝ラッシュ時の一部ダイヤ改正を実施。

34月=朝ラツシュ時 丸山〜大宮間1往復増発。

312月=大宮21時台発丸山行き2本を内宿に延長。

49月=平日、専門学校新設にともない登下校輸送のため増発。デイタイム、大宮〜丸山間を内宿に延長して、全線15分間隔に、夕時間帯大宮〜内宿間2往復増発。休日、大宮〜丸山間を内宿まで8本延長。

612月=6両編成1本を増備して、平日、朝通勤時と夕通勤時、夜間に各2往復増発。休日、早朝、夕刻に丸山〜内宿間に5往復増発。

 きわめて厳しい環境の中で整備された路線であるが、自治体の沿線開発や大宮市の経済活動の拡大が追い風となって、急速に旅客数を伸ばしていった。14年目の単年度黒字の見通しは開業後6年目で早くも実現した。埼玉副都心が完成して、さいたま市の成立が予定すなど、埼玉新都市交通の将来は順風満帆に見える。

 しかし、平成119月諸経費の増加を理由に9.6%の運賃改定を実施した。近年、景気の低迷と人口構成の変化から全国的に公共交通の旅客の減少傾向が続いている。それに加えて、大都市圏の周辺部を中心に、道路整備にあわせてロード・サイドでの商業開発が進み、自家用車依存の生活様式が定着してきている。埼玉新都市交通の沿線はまさにそういう地域である。

モノレールと新交通システム グランプリ出版 2310円込

RAILLINKs.jp