RAILLINKs.jp

標準化第1

横浜新都市交通

金沢シーサイドライン

佐藤信之

 

記事:『鉄道ジャーナル』平成122月号掲載

注:入稿後の修正については反映しておりません。また、図・表も省略しています。

 今回は、整備済みプロジェクトとして横浜新都市交通の金沢シーサイドラインを取り上げる.この路線は、運輸省と建設省による標準化システムが適用された最初の事例である。建設省によるインフラ補助が適用され、インフラ部については横浜市と建設省が建設したが、補助制度についてはすでに再三説明したので、ここでは触れないことにする。 

新交通システムの標準化システムについて

 新交通システムの標準化の動きは、建設省と住宅・都市整備公団が昭和55年から住宅団地に導入する新交通システムの標準化について日本交通計画協会に調査を委託したことが発端であるという.この調査では、運輸省、建設省の行政側で「行政協議会」と「幹事会」を組織し、一方日本交通計画協会には「学識経験者委員会」と「メーカーグループ研究会」が置かれた.参加したメーカーとそれぞれが開発していたシステムは次ぎのとおりである。

 川崎重工--------------------------------- KCV

 新潟鐵工、住友商事------------------ NTS

 三菱重工、三菱電機、三菱商事--- MAT

 日本車両、三井物産------------------ VONA

 神戸製鋼、日商岩井------------------ KRT

 富士車輌、日本鋼管、日綿--------- FAST

 東急車輛、日立製作所--------------- PARATRAN

 昭和571225日新交通システムの標準化についての新交通システム推進議員連盟による会合を経て、昭和583月「新交通システムの標準化とその基本仕様」(日本交通計画協会)としてまとめられた.必要最小限の基本仕様として,案内方式は過去の技術の蓄積と避難時のことを考えて側方案内方式とすること。分岐方式は水平案内可動板方式(スイッチブレードシステム)とすること。電気方式は直流750Vを原則とすることが定められた.

 この新交通システムの標準化システムは、新交通システムを普及させるために、導入検討手続きを簡素化し、建設費の低廉化を図ることを目的に、基本仕様を定めてシステムの標準化を図るというものである.

 たとえば、建設省のインフラ補助制度では道路部(インフラ)と軌道施設(インフラ外)を別々の事業として位置付けているが,道路整備にあたって将来の新交通システムの導入を想定して事前に施設を準備することができる。また、標準仕様でインフラ部を建設して、暫定的にガイドウェイバスを導入することも想定されていた.さらに、車両の標準化で製造両数を拡大して単価を引き下げることが可能となり、不用になった車両を他に転用することも容易であるとしている。

 しかし、現実には、路線毎の特性が異なり、標準化システムに路線毎の特別な条件を付加する結果、車両の単価はむしろ上昇し、他への転用もむずかしいのが現状であるという。それに加えて、新交通システムの建設が停滞状態にあるために車両の製造数量も小さくスケールメリットを享受することにはならなかった。

金沢シーサイドライン計画

 金沢シーサイドラインは、金沢区地先の公有水面を埋立てた約660万uの造成地のアクセスを担うことを目的とした。この埋立事業は、昭和43年度から56年度までを事業期間として着手したが、完成は若干遅れて昭和58年となった。

 横浜市は、関内周辺の都心部と近年急速に発展している横浜駅周辺の2極分化が進み、都市の集積の利益が損なわれていた.そこで、この2極の間に展開する造船所や倉庫・港湾施設を移転させて、一体的な都市開発の推進を目指すことになった。この埋立地は、まさにこれらの工場施設の移転先として計画したものである。埋立地には、これら都市再開発にともなって移転してくる従業員約4万人からなる工場と、日本住宅公団が計画人口約3万人の住宅地を開発することになった。また、この埋立地は、横浜市に最後に残された自然の海岸線を破壊することになるため、これに代わる海の公園地区としてレクリエーション施設を整備することとした。

 金沢シーサイドラインの計画は、まず昭和48年「横浜市総合計画」のなかで示され,昭和491月には、八十島義之助東大教授を委員長とする「新都市交通施設調査研究会」(市議会各党、学識経験者、国、県、市より22名の委員で構成する)が設立された。昭和4911月には金沢地先埋立地での新交通システムの実用化を提言することになる

 地元の開発業者ら6社から、昭和517月金沢地先埋立地での新交通システムの実験線計画の申し入れがあり、横浜市は同年11月これを承認したが、横浜市自身も研究中であるということで条件付きとした。

 横浜市は、昭和524月横浜市新都市交通システム研究開発委員会を設置して、横浜型新交通システムの開発計画を検討した。さらに、昭和52年度には、都市モノレール等調査委員会を設置。昭和5253年度の2ケ年にわたり建設省の調査費補助を受けて需要予測と経営収支予測を実施した。その結果、昭和53年度都市モノレール等調査委員会は、交通需要からみてバスでは不足。地下鉄では大きすぎるため、中量輸送機関として新交通システムが適当とする答申を提出した。

 金沢シーサイドラインの建設される埋立地は、新杉田側隣接地の金沢区鳥浜町を「ハ」地区とし、北側から1号地〜3号地に分けられる.埋立地の中央を南北に東京湾環状道路が縦断し、この西・陸側を中心に住宅地が広がり、東・海側に工場や大学病院などの公共施設が整備されることになる。新交通システムは路線の約半分をこの東京湾環状道路に併設し、住宅地の通勤と公共施設への足の便を提供することになるが、さらに金沢八景の隣接地区に建設される海の公園への年間130万人余りの行楽客の利用も見込めるというものであった。

 昭和537月にはそのうち1号地への入居を開始。昭和549月〜103号地に進出する企業の募集を実施した。そして昭和551月には都心の再開発による移転先である2号地への企業入居も開始した。

 なお、昭和54年度には、金沢シーサイドラインとは別に、北部幹線に対して調査費補助200万円が国庫補助された。この北部幹線とは、昭和41年の都市交通審議会答申で示された地下鉄4号線のことで、綱島、鶴見方面と港北ニュータウンを結ぶ路線である。地下鉄ほどの需要が見込めないこと。3号線の建設に着手しているので4号線に手が回らないこと。港北ニュータウンの整備は着々と進んでいて、昭和55年度中に入居開始、62年度には造成工事を完了する予定となっていたので、緊急性を要することからモノレールでの整備が検討された。

金沢シーサイドライン事業の着手

 昭和54年度、金沢シーサイドラインに対して建設省のインフラ補助の適用が採択されて、とりあえず事業費6,000万円のうち4,000万円が国費として予算化された。軌道事業特許申請に向けてルート設計や測量・土質調査を開始することになる.

 国庫補助が認められたことで、横浜市は昭和54年度に「横浜市新交通調整委員会」を設置して、計画、建設、運行などについて基本的問題の調整を図ることになった.

 金沢シーサイドラインは、路線の大半が埋立地内にあるために既成市街地での用地取得などに悩まされることが少なかった。強いて上げれば、国道357号線(東京湾環状道路)の計画路線と競合することから、これへの相乗りの問題や将来高速道路が入る場合に道路空間を取り合いとなることなどであった。

 また、事業主体についても、当初は、地下鉄、バスに経営経験のある市の交通局が有力であった。すでに交通局はこの地区でのバス輸送を担当しており、また、新交通を開業した際には、港北ニュータウン地区へ車両と要因を転用することが見込まれた。

 昭和55年末の段階では、昭和56年度中の特許申請と都市計画決定を予定。56年度中には工事に着手できる見通しを示したが、それでも、開業予定は当初見通しの昭和60年度からいくらか遅れる見込みであった。実際には、これも実現しなかった。

 金沢八景付近の詳細ルート。京浜急行との接続方法。埋立地および公園などとの関係によるルート調整。事業主体についてが課題であった。

 昭和569月には、金沢地先埋立地の市街地化は着々と進行しているのに対して交通整備が遅れていることから、横浜市に対して立地企業などから強く新交通システムの整備が陳情された。

 おりしも,昭和56年横浜市「よこはま21世紀プラン」の中に、新交通システムの導入について、金沢シーサイドラインを整備するほか、交通貧困地域についても検討を進めることが盛り込まれた.

 金沢シーサイドラインの事業は遅れ気味であったが,細郷市長の再選で、57年度内の本格的事業化を目指して動き出した.そして、昭和5765日都市整備局に置かれていた新交通調査担当を道路局の所属に移し新交通建設担当とした。

 なお昭和55年度には、横浜市の独自な事業として金沢八景以遠のモノレール調査を、約1,500万円の予算を計上して実施した。

金沢シーサイドライン計画の概要

 金沢シーサイドラインは、国鉄新杉田〜京浜急行金沢八景間約11.5kmの路線で、側方案内式の新交通システムである。昭和57年度始めの段階で建設費は建設中の利子を含めて総額5823200万円で、そのうちインフラ部が2637000万円、インフラ外が3236200万円とされた。

 昭和57年度から昭和61年度を建設期間として、昭和624月の開業を目指すとした.

 なお、開業後の経営主体については、公営または第3セクターとして、この段階でも決着がついていなかった。昭和579月の市議会までに明確化する方針が示されていた.

 一方、需要予測は、終日利用者数で昭和61年度に69,700人、65年度以降で77,600人とし、ピーク時交通量についても昭和61年度6,700/時、65年度以降7,800/時を見積もった.(「都市モノレール計画」86号、昭和57625日)

 これらの数値は、昭和58年時点で改定され、総建設費は約690億円に増加し、需要予測は開業時約76,000人/日、昭和65年度約84,000人/日に上方修正された。

横浜新交通交通の設立

 事業主体として第3セクターを設立することに決まり、昭和571019日第3セクター「横浜新都市交通」の発起人会が開かれた.そして昭和58421日には創立総会となり、翌日22日が設立日である。

株主

 横浜市     19,500株 51.32%
 京浜急行    6,000  15.79
 西武鉄道    2,000   5.26
 横浜銀行    1,900   5.00
 三菱重工業   1,140   3.00
 東京電力    760   2.00
 日本発条    380   1.00
 横浜マーチャンダイジングセンター100   0.26
 横浜商工会議所 20   0.05
 その他 49 6,200  16.32
 合計      38,000 100.00

 役員
 代表取締役社長 秋山英夫  横浜銀行代表取締役副頭取
 代表取締役専務 石井敬一郎 元金沢区長
 常務取締役   宮本康夫  日本開発銀行
 常務取締役   宮原治行  京浜急行
 常務取締役   小林源兵衛 西武鉄道
 取締役     浦 久康  三菱重工
 取締役     池谷政雄  日本発条
 取締役     霜田清司  協同組合横浜マーチャンダイジングセンター
 取締役     川村政雄  横浜商工会議所
 取締役     対馬好次郎 相模鉄道
 常任監査役   井上壽蔵  東京電力
 監査役     西脇 巌  横浜市収入役

 授権資本と発行株数は76億円、152000株で、そのうち設立時の資本金は19億円、発行株数は38000株である。

 昭和58117日軌道運輸事業特許を申請。昭和59417日に軌道事業の特許を取得して、まず先行して工事施工認可を得た車両基地のある並木中央と福浦間2.3kmについて工事に着手した.そして1115日に起工式を執り行うことになる.

金沢シーサイドラインの開業

 平成元年75日金沢シーサイドラインは開業した。新杉田〜金沢八景間10.6kmで、計画路線長に不足するのは金沢八景駅に乗り入れできなかった分である。現在も仮駅と金沢八景間が未成線となっている。

 初代社長は横浜銀行の秋山英夫が就任したが、開業を見ずに昭和638月に死去した。後任には同年10月細郷道一横浜市市長が就任したが、開業後の10月専任の社長が望ましいとして石井敬一郎同社専務にその職を譲った.

 日中10分間隔、通勤時5分間隔で1129本を運転。当初1日の利用者は3万人弱と低迷することになるが、これは計画当初の需要予測約7万人はもちろんのこと、開業直前の需要予測4万人をも下回っていた.しかし、次第に旅客数を伸ばして、平成8年度には、1日平均48千人余りが利用するまでに伸張している。

 また、運賃は当初220円の均一料金で開業したが、初乗り運賃としては全国的にも割高な水準であった。平成3年には平均9%の値上げを行って均一運賃を240円に引き上げたことで、短距離客に割高感を感じさせることになった。そこで、平成7年の運賃改定では、均一運賃をやめて対キロ区間制に改められた。初乗り運賃は230円に下がった一方で,全線を利用する場合には300円へと大幅に上昇した。

 金沢シーサイドラインは、省力化についても配慮されていた。両端の新杉田、金沢八景と車両基地のある並木中央の 3駅を除いて無人化し、さらに平成57月から半数の列車の無人運転を開始した。もともと無人運転に対応した施設として設計され、駅にはホームドアが装備されていた。しかし、同年105日の大阪市ニュートラムの暴走事故への対処として、翌日から、終点までの1駅間だけ全列車添乗員が乗務することになる。


モノレールと新交通システム グランプリ出版 2310円込

RAILLINKs.jp